歴史

タオルミーナの起源

紀元前8世紀ごろ、ギリシャ本土は各都市国家の人口増加に伴い、経済的に飽和状態となり、南イタリアやシチリアに集団的移民活動を開始します。計画的に募集をかけて移民団を送り出したのです。行き先はデルフォイの巫女による信託次第でした。彼らは、貧困からの脱出を願い、あるいは新天地にかける野心を抱き、団長に率いられて故郷をあとにしました。シチリアへの最初の移民団はエウボイア島のカルキス人とナクソス島の人々で、エトナの溶岩によってできたスキソー岬の港に目を付け、紀元前735年ここに植民地ナクソスを築きました。スキソー岬は約2万年前のエトナのモイオの噴火の際に溶岩が噴出しアルカンタラの渓谷を流れ、海岸に達して海に突き出すよう形成された岬です。


続いて1年後の紀元前734年にペロポネソス半島のコリント人がアルシアスの指揮のもとでシラクーサのオルティージャ島入植するや急速に勢力を伸ばします。 紀元前413年 このシラクーサの強大な勢力をギリシャ本国のアテネが驚異と感じ、セリヌンテとセジェスタの紛争に乗じてシラクーサに古代戦史に残る攻撃を仕掛けます。軍艦約120隻、総勢三万の兵士を送り込みます。シラクーサも替主ディオニシオスの指揮のもとで2年間このアテネの包囲に耐え続けました。コリントとスパルタの援軍が駆けつけてアテネは敗戦します。生き残った約7千人の戦士は捕虜となり石切場で奴隷となりました。このアテネとシラクーサの戦いでナクソスはアテネに加勢します。ナクソスはもともとアテネよりの都市国家(イオニア人)からの移民ですからアテネに加勢するのは当然といえます。しかし戦争に勝ったディオニシオスはこのアテネに加勢したナクソスを許すはずもありません。というわけでナクソスを攻撃、徹底的に破壊します。生き残ったものはすべて奴隷として売られました。


しかし中に、以前からタウロ山にいた先住民族のもとに駆け込んで逃げおおせたものもいました。この先住民族はメソポタミアからイタリア半島を通って渡来した青銅器文化の騎馬民族シクリの一派で、馬、牛、羊などを飼育しギリシャ人とは交易を行って友好関係を築いていたのです。ディオニシオスの追っ手を防ぐために紀元前403年ここに城壁を築きます。この場所が現在のタオルミーナでタウロは牛の意味、城壁メニアからタウロメニア→タオルミーナの名が生まれたといわれています。


401年、これを知ったシラクーサの僭主ディオニシオスがすべて皆殺しにしようとしてこれに迫りましたが、自然の障壁と新しく補強した城壁のおかげでディオニシオスといえどもこれを破ることはできなかったのです。この険固な城壁はアラブ時代に内部の裏切りによって陥落するまで難攻不落でした。このように紀元前358年、ナクソスの滅亡とともにこのタオルミーナができたわけです。

▲ギリシャ人入植の地を示すニケの像/ナクソス湾