シチリア各地の主な見どころ

タオルミーナを起点にシチリア北東部~南東部にかけての各地の史跡、景勝地を日帰り、小旅行で訪れることができます。

タオルミーナからは 日帰り(半日・終日)、小観光で訪れることのできる世界遺産をはじめとした見所がおおくあります。以下、近郊都市のハイライトをご紹介します。ご訪問の際には訪問場所をゆったりと見られるよう、時間的に余裕を持ったプランをおすすめします。

メッシーナ 聖母マリアに護られる海峡のまち
タオルミーナからの距離: 52km、 専用車にての所要時間: 約50分

メッシーナは古くは青銅器時代にその歴史がさかのぼります。メッシーナには町の前に鎌のような形をした半島が突き出て大きな港を形成していますが、沿岸には他にこのような安全な港は無かったことから先史時代よりこの鎌の形をした港は交通の要衝として重視されてきました。紀元前740年ごろにギリシャ人が入植し、海洋都市としての役割が確立され以来、支配者はかわってもメッシーナ海峡における揺るぎない役割をになってきましたが、このような戦略的な位置にあることから戦乱、他民族の支配が絶えず、さらには度重なる自然災害、疫病の流行などもあり、破壊とその都度の不屈の精神による再建を繰り返してきており、その歴史はまさに波乱万丈です。1955年6月欧州石炭鉄鋼共同体6カ国の外相が集った会議で、ヨーロッパ経済圏の構想が打ち出され1958年にEUの前身であるEEC(ヨーロッパ経済共同体)が発足しました。EUの原点となったこの会議が行われたのがメッシーナなのです。様々な問題をかかえるEUですが、加盟国間の折り合いがつかないとき、原点にもどってという意味で、メッシーナの理念をという言葉が使われるときがあります。


▲メッシーナのシンボルマドンナ

▲オリオンの噴水

▲ドゥオーモの仕掛け時計

▲秘宝黄金のマンタ

▲多翼祭壇画の聖母子像
(アントネッロ・ダ・メッシーナ)

メッシーナでは6月3日に書簡の聖母マリアの祝祭日を盛大に祝います。書簡を手にした聖母マリア像が町を行進する厳かな儀式です。聖母の栄誉をたたえメッシーナ市民は港の入り口に聖母像の塔を建て聖母に捧げました。この聖母像はトーレ・カラブロー(Tore Calabro’)による青銅に金箔を施したもので高さ6mです。台の部分には「あなた方の町に祝福がありますように」という意味のラテン語が記されていますが、これは、聖母マリアが42年パレスティナの聖母のところに赴いたメッシーナからの使者に託した手紙に書かれているものです。


大聖堂の建立は1100年代初頭ノルマン王ルッジェーロ2世の時代にさかのぼりますが、何度もの戦乱、災害にあっており、中でも1783年の地震、さらに大きな1908年の地震によってかなり損傷し、その都度修復されました。最も深刻な被害は1943年の空爆による火災です。その後の慎重に残骸を再利用して再建されました。

内部はT字型の三廊式教会で、できるかぎりオルジナルに近い形で忠実に再建されました。右側廊にある、アントネッロ・ガジーニ(Antonello Gagini, 1478-1536)作の彫像「洗礼者ヨハネ」は唯一奇跡的に残っています。ヨハネ像に続いて、モントルソーリの使徒たちの祭壇が続きますが、オリジナルはひとつあるいは二つで残りは16世紀以降のアーティストによって作り直されたものです。

ドゥオーモ内部に貴重な祭具や法衣などを保管する宝物殿があります。純銀製の多くはメッシーナで制作されたものですが、なかでも素晴らしいのは純金製のマンタです。マンタは聖母子像などの絵画をさらに飾り立てるために絵画の上にかぶせるもので、中世にシチリアで非常に普及しました。細かな細工のまばゆい黄金のマンタは必見です。その他にもたくさんの純金製のものがあり、メッシーナの経済繁栄ぶりがうかがえます。

メッシーナの起源にまつわるギリシャ神話は数多くありますが、海の神ネプチューンの子であるとの説もある狩りの達人オリオン(オリオン座のオリオンです!)がメッシーナを作ったといれれています。ドゥオーモの脇にはその伝説の英雄オリオンの噴水が16世紀に当時の巨匠モントルソリによって築かれています。

メッシーナで一番人気は鐘楼の仕掛け時計です。本堂と同じように災害や戦乱にあい、現在見られる鐘楼は1933年に落成されました。その際に、ストラスブール製機械仕掛けの人形付き時計がつけられました。時計塔は高さ60mで、7段構造になっています。世界最大の天文、仕掛時計で、ベルリンの機械博物館にそのミニチュアが展示されています。日正午に最上部のライオンが3度いなないて、アヴェマリアの調べと共に、仕掛けが動き出します。約15分にメッシーナの歴史が織り込まれています。

  • 最上段:メッシーナのシンボル、ライオンが毎日12時に3度いなないて、鶏が羽ばたきながら鳴くと、アヴェマリアの調べとともに仕掛時計が動きます。
  • 2段目:1282年シチリアの晩鐘で、アンジュー家の攻撃に対し、ディーナとクラレンツァが鐘をならし、剣を持ってフランス兵に立ち向かい、市民に報せました。左が15分の時の鐘、右が1時間ごとの時の鐘をうちます。
  • 3段目:メッシーナの使者団に聖母マリアが書簡をつかわします。書簡を携えた天使がマリアに書簡を授け、次々にメッシーナ使節団がひとりひとり、マリアにお辞儀をしながら通り過ぎます。最初の使節がマリアから書簡を受け取ります。
  • 4段目:三賢者礼拝(エピファニーから聖土曜日まで)、キリスト昇天(復活祭からまで五旬節まで)、聖霊降臨(聖霊降臨から12月23日まで)、キリスト生誕(12月24日から1月6日まで)
  • 5段目:鳩が山の上を回転しながら舞い、そこにモンタルト教会が浮かび上がります。(シチリアの晩鐘の際、シャルル・ダンジューの軍が町を攻めてきたとき、聖母マリアが城壁の上に姿を現し、メッシーナ市民に敵に立ち向かうよう鼓舞し、この栄光に満ちた日はメッシーナの大勝利に終わります。辛酸をきわめた戦場となったカップリーナの丘の上を鳩が円を描くように舞うのを見て市民はこれを聖母マリアの意志と受け止めこの勝利を聖母マリアにささげるべくモンタルト教会を建てました。
  • 6段目:骸骨が手旗を振り、その下を幼児、若者、兵士、老人が回るります。
  • 7段目:曜日を表す馬車(毎日0時に動きます。) 日曜日アポロン、月曜ディアナ、火曜マルス、水曜メルクリウス、木曜ジュピター、金曜ヴィーナス 土曜サトゥルヌス

鐘楼の南側は天文時計になっていて星座のシンボルと月の満ち欠けの状態を表しています。太陽系の位置関係が一目でわかる非常に精密なものです。


メッシーナ州立博物館はもともと1806年に市立博物館として設立されたものですが、アントネッロ・ダ・メッシーナの「聖グレゴリオ多翼祭壇画の聖母子像」、「エクセホモ」、カラバッジョの「羊飼いの礼拝」、「ラザロの復活」などの名作品を所有しています。また、モントルソリ作のネプチューンの噴水の一部スキュラのオリジナルもこちらにあります。


カターニア  シチリア最大商業都市、エトナ山の麓に広がる聖女アガタの町(UNESCO世界遺産)
タオルミーナからの距離: 120km、 専用車にての所要時間: 約90分

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カターニアはエトナ山の南斜面に位置するカターニア平野及びカターニア湾に面する人口約29万人のシチリア第2の都市です。パレルモが政治の中心の東京とすれば、カターニアは商業の町大阪といったところで、カターニア人の気質も大阪と良く似ています。

町はもともとシカニ人が住んでいたところに、起源前13世紀頃からシクリ人がやってきて、さらにその後起源前729年にギリシャ人がやってきてKATANEを建設しました。その後ローマ、ビザンチン、アラブ、ノルマンの支配という多かれ少なかれ他のシチリアの諸都市と同じ運命をたどっていきます。アラゴン家が支配していた時代にはシチリア王国の首都にもなりました。

エトナ山の麓にあるため歴史的に数々の自然災害に見舞われています。史実に残る一番大きな噴火は1669年、1169年と1693年にはかなり大きな地震で大被害を受けています。この17世紀後半の1669年の噴火、そして1693年の地震の後、カターニアの町の再建の際、バロック様式で屋敷や教会が再建されました。これらはカルタジローネ、ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、モディカ、ノート、パラッツォーロ・アクレイデ、ラグーサ、シクリとともに2002年にヴァルディノート後期バロック建築群の町としてユネスコ世界遺産に指定されています。

▲ドゥーモ

▲ローマ円形劇場

▲聖女アガタ

▲ヴィンチェンツォ・ベッリーニ

カターニアはエトナ山の南斜面に位置するカターニア平野及びカターニア湾に面する人口約29万人のシチリア第2の都市です。パレルモが政治の中心の東京とすれば、カターニアは商業の町大阪といったところで、カターニア人の気質も大阪と良く似ています。

町はもともとシカニ人が住んでいたところに、紀元前13世紀頃からシクリ人がやってきて、さらにその後起源前729年にギリシャ人がやってきてKATANEを建設しました。その後ローマ、ビザンチン、アラブ、ノルマンの支配という多かれ少なかれ他のシチリアの諸都市と同じ運命をたどっていきます。アラゴン家が支配していた時代にはシチリア王国の首都にもなりました。

エトナ山の麓にあるため歴史的に数々の自然災害に見舞われています。史実に残る一番大きな噴火は1669年、1169年と1693年にはかなり大きな地震で大被害を受けています。この17世紀後半の1669年の噴火、そして1693年の地震の後、カターニアの町の再建の際、バロック様式で屋敷や教会が再建されました。これらはカルタジローネ、ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、モディカ、ノート、パラッツォーロ・アクレイデ、ラグーサ、シクリとともに2002年にヴァルディノート後期バロック建築群の町としてユネスコ世界遺産に指定されています。

大聖堂

カターニアの守護聖人聖女アガタに献堂されています。11世紀に建設され、その後の度重なる災害により建設、破壊、再建を繰り返しました。そして1669年カターニアはエトナの大噴火により溶岩が町に流れ、大被害をうけ、1693年にヴァル・ディ・ノートを襲った大震災でほぼ全壊といってよいほどの被害を受けました。ノルマン時代の円柱を2層に重ねたファサードはG.B.ヴァッカー二の作品です。

大聖堂内部には1835年に34歳の若さでパリで死去したカターニア出身のオペラ作曲家ヴィンチェンツォ・ベッリー二の墓があります。これは彼の死の41年後の1876年にここに移葬されたものです。ベッリーニの墓碑は彼の有名な作品の一つである「夢遊病の女」の一場面と楽譜を刻んだものです。2002年に通貨がユーロに変わる前の最後のイタリアリラ5000リラ札にはヴィンチェンツォ・ベッリーニとカターニアのオペラ劇場、裏手には彼の代表作であるノルマのシーンが描かれていました。カターニアの空港はもともとFONTANA ROSSA(赤い泉・エトナ山から赤く吹き出す炎のイメージです)というニックネームで呼ばれていますが、数年前に新ターミナルが完成してからは、VINCENZO BELLINI空港とも呼ばれています。また市内の至る所にベッリーニの名がつけられており、ステシコロ広場には堂々としたベッリーニの像もあり、カターニアがベリーニをとても誇りに思っていることがうかがわれます。

一番右奥にカターニアの人々がCammareddaと呼ぶ聖女アガタに捧げた礼拝堂があります。この礼拝堂の中には聖女アガタの聖遺物が納められています。

大聖堂内部にはまた1669年のエトナ山の大爆発でカターニアの町が襲われる悲劇を描いたジャンチント・プラタニアのフレスコ画などがあります。押し寄せる溶岩流を前に人々は神にご加護を祈りながら船にのり沖合に非難した様子が描かれています。


ドゥオーモ広場からエトナ通り周辺

ドゥオーモ広場は17世紀後半の大震災の後、パレルモのジョバンニバッティスタ・ヴァッカリーニが設計して作りました。広場の真ん中にある象の噴水(Fontana dell'Elefante)も彼が手がけた作品です。象は円形劇場から出土した溶岩石でできたもので、カターにアのシンボルです。広場全体が、白い石灰石と黒い火山灰の漆喰、ローマ時代の古いものと18世紀当時の新しいもの、エジプトのイシス信仰と聖女アガタ信仰という、二つの対照的なもののコントラストの調和により見事にカターニアを象徴しています。広場の端から蕩々と流れるのがアメナーノ川で、広場はこの川を覆って作られていることがわかります。アメナーノ川はエトナの雪解け水を集めた川ですが、広場の端から魚市場のすぐそばを流れています。カターニアの魚市場はパレルモのウッチェリア市場と共にアラブの名残を思わすものですが、非常に活気のある市場です。

エトナ通りはウゼータ門から始まりエトナ山方向に向かう約3kmのメインストリートです。人口の3分の2が瓦礫に埋まるという大被害を受けた1693年の震災の後、総督に町の再建を任じられたカマストラ侯爵は、都市再建にあたり全壊を免れた数少ない建築物のひとつ大聖堂を起点にまっすぐに伸びる幹線道路を建設しました。このようにして、ドゥオーモからアチ門(現在のステシコロ広場)にいたる約700メートルのウゼータ侯爵通りが建設され後にエトナ山に向かう道しててエトナ通りと呼ばれるようになりました。エトナ通りに沿って、美しいバロックの教会や屋敷が建ち並びます。


ステシコロ広場にはヴィンチェンツォ・ベッリーニの記念碑、その前には紀元2世紀頃の建設ローマ円形劇場あとがあります。ベッリーニ像の正面のサンビアジョ教会は1693年の震災の後に建設されました。聖女アガタが殉教したと伝えられる炉のあった場所で、ここに監禁されアガタは火を使った拷問をうけ、乳房を切り取られました。

クローチフェリ通り

piazza San Francesco d’Assisi から San Benedettoのアーチをくぐったところからはじまります。わずか200mに、一般の住居はほとんどなく教会や修道院などが建ち並ぶ通りで、聖ベネデット教会などの1800年代のバロック様式の教会、聖辺ベネデット教会、聖フランチェスコボルジア教会、 聖イエズス会教会、聖ジュリアーノ教会などが立ち並びます。San Giuliano通りを越すと、Crociferi修道院、San Camillo教会、つきあたりにはVilla Cerami(現カターニア大学法学部)があります。

シラクーサ 古代ギリシャ時代の遺跡とバロック建築群の街並み (UNESCO世界遺産)
タオルミーナからの距離: 52km、 専用車にての所要時間: 約50分

シラクーサは太宰治の走れメロスの舞台にもなっていて、我々日本人にも身近に感じることのできる町ですが、アルキメデス、サンタ・ルチアなど、他にも聞いたことのある人物のふるさとでもあります。紀元前8世紀にギリシャ人によって建設されたシラクーサはシチリアで最大の繁栄を誇りました。古代地中海文明が好きな方には必見の町ですが、遺跡観光だけではありません。オルティージャ島はユネスコ世界遺産に登録されているバロックの街並が素晴らしく、ドゥオーモ広場はシチリアで一、二を争う美しさ、カラバッジョやアントネッロ・ダ・メッシーナの作品を鑑賞できる教会や美術館、活気のある市場や洒落たブティックもありそぞろ歩くのが楽しい町です。

このようにみどころが多いシラクーサはどなたにも興味深い町です。タオルミーナからも高速道路で結ばれているので約90分弱の快適なドライブで訪れることができます。

このアクセスの良さからタオルミーナからの半日観光も可能ですが、見所もおおいところなので、じっくりと一日観光、あるいは夜のオルティージャ島がとても素敵なので、是非ご宿泊なさってみて下さい。オルティージャ島は徒歩で観光できるので、個人旅行者の方もとても快適に散策できます。


ネアポリス考古学公園

ギリシャ劇場

▲シチリア最大のギリシャ劇場

▲石切場「ディオニシオスの耳」

古代ギリシャの栄華を今に伝えるのが考古学公園です。

約200mという巨大なヒエロン2世の祭壇は起源前3世紀の建設です。歴史家ディオドロスによれば450頭もの牛をゼウスに捧げる儀式が行われていたとのことです。当時これほどの繁栄していた町はシラクーサをおいて他にはありませんでした。ヒエロン2世の時代にシラクーサはカルタゴとローマのポエニ戦争に巻き込まれ、長く握っていたシチリアの覇権もローマにとってかわられその終焉を迎えますが、このヒエロン2世にアルキメデスが仕え、祖国防衛のためにいろいろな武器を考案しています。(考古学公園のすぐ裏手にアルキメデス野外博物館があり、アルキメデスの考案したものを再現展示しています。)

ギリシャ劇場は起源前5世紀の建設ですが、シチリア最大の劇場です。ローマ時代の改装や16世紀スペイン支配時代にオルティージャ島防衛のための城壁作のために石が持ち運ばれ破壊がすすみましたが、それでもギリシャ劇場の構造をよく残しています。

劇場の下にあるのが、古代の石切場、天国の石切場です。このの一角にディオニシオスの耳と呼ばれる洞窟があります。外から見るとこの洞窟の入り口は耳の形をしています。1608年に画家のカラバッジョが友人のシラクーサの歴史家とともにこを訪れディオニシオス1世がとらえたアテネの捕虜を収容するために建設し、上部の穴からアテネ人の会話を聞いていたという伝説を聞いてこう名付けたと呼ばれています。

起源前3世紀頃に建設されたローマ円形劇場はヴェローナのものより一回り小さなものです。上部の積み上げた石はスペイン支配時代持ち出されてしまったため、残っていませんが、岩場を切り出した下部分が残っています。また、アレーナ中央にはかつて剣闘士の戦いなどに用いられた仕掛け舞台の遺構が見られます。





パオロ・オルシ州立考古学博物館

▲ランドリーナのビーナス

州立国立博物館には先史時代からギリシャ時代にかけてのシラクーサと近郊の出土品が出土地域、年代別に収められています。ミニマンモスの化石、ギリシャ神殿の模型など興味深いものが多いのですが、優美なランドリーナのビーナス像は必見です。ギリシャ時代の彫刻をもとに起源前2世紀頃にローマ時代に作られた大理石像です。


オルティージャ島

オルティージャ島はわずか1平方キロという小さい島なので、見所が多いのですが徒歩で観光できます。どこかギリシャ的な空気の漂う美しい街並みを散策するだけでも訪れる価値があります。現存するシチリア最古のギリシャ神殿であるアポロ神殿跡、紀元前5世紀のアテネ神殿を改装して今なお教会として使われているドゥオーモ、パピルスが印象的なアレトゥーサの泉、カラバッジョの「聖女ルチアの埋葬」が見られる聖ルチア・バディア教会、アントネッロ・ダ・メッシーナの「受胎告知」が見られるベッローモ州立博物館などがあります。夏には島の回りは海水浴場にとなり地元の人がシチリアの太陽と透明な美しい海と楽しんでいます。


 

▲ドゥオーモ

▲ドゥオーモ広場

▲アレトゥーサの泉

▲市場

 

カターニアと同じように1693年の大震災で被害をうけた後に整えられたバロック様式の町並みはやはりユネスコ世界遺産に指定されています。バロック様式の建物に囲まれた美しいドゥオーモ広場では映画「マレーナ」も撮影されています。


本島と結ばれた橋につながる広場のつきあたりに起源前6世紀のアポロン神殿跡があります。シチリアで一番古いドーリア式神殿ですが、ローマ帝国滅亡後に東ローマ帝国、アラブ人、ノルマン人などの侵入とともにそれぞれの侵略者の神殿に改築されてしまい、今では今世紀前半に発掘された梁を支える二本の古いドーリア式の一本石の円柱や土台石、円柱の基部などが往事の姿を偲ばせているだけです。


アルキメデス広場にはジュリオ・モスケッティーによるディアナの噴水(1906年)があります。狩りの女神ディアナの下に逃げるアレトゥーサ、彼女を追いかける川の神アルフェイオスの姿がモチーフ になっています。


ドゥオーモが位置するのは、オルティージャ島の一番高いところ、ギリシャ人が入植前からのシクリ人の聖域だったところですが、起源前480年、ヒメラの戦いでカルタゴを破った僭主ゲロンにより、アテネ神に捧げて神殿が作られました。7世紀に大司教ゾジモによって聖母マリアに捧げる教会に改装されました。ギリシャの神殿は建物のまわりに列柱が並ぶ周柱式神殿ですが、三廊式の教会は内部に柱が並びます。教会に改装するために神殿の周囲の円柱と円柱の間に壁を作り、内部の壁をくり抜き柱が並ぶかのようにして、三廊式の教会に改装しています。ドゥオーモの外壁にはその様子がはっきりとみてとれます。その後何度かの地震による修復がなされていますが、1693年シチリア南東部を襲った大震災のあと大きく改装され、現在見られるバロック様式のファサードが完成しました。

ドゥオーモ内部にはいってすぐの左側廊の壁にそって、ドメニコ・ガジーニ作聖母子像、アントネッロ・ガジーニによる聖女ルチア像など巨匠の作品がならんでいます。右側廊には、シラクーサの守護聖女ルチアの礼拝堂があり守護聖女ルチアの純銀製の像が納められています。(写真が飾られています。)

聖堂の一番奥にあるクローチェフィッソ礼拝堂にはアントネッロ・ダ・メッシーナ作の「聖ゾジモ」の肖像画があります。


ドゥオーモ広場の一番奥に聖ルチア・アッラ・バディア教会があり、カラヴァッジョ「聖ルチアの埋葬」(1608) が展示されています。*カラバッジョの「聖ルチアの埋葬」の絵は現在は聖女ルチア埋葬教会にあります。()


ドゥーモ広場からすぐ近く、シラクーサ湾に面してアレトゥーサの泉があります。この泉にはパピルスが茂っています。パピルスというと古代エジプトのイメージが強いですが、シチリアにはいくつかパピルスの自生する場所があります。シラクーサ郊外のチアネ川もそのひとつです。


小さいながらも活気のある市場も是非訪れ手見て下さい。活きの良い魚貝類、新鮮な野菜など見るだけで楽しいものです。シチリアの食材が安く手に入るので、ちょっとしたお土産を手に入れるのに便利です。アポロ神殿裏手のVia Benedictis沿いに毎日早朝から昼ごろまで、活気あふれた市がたち、季節の野菜や鮮魚が並びます。シチリアのチーズ、ドライトマト、乾燥ハーブ、潮漬けケイパーなど、シチリア食材やフルーツを購入するのにお勧めです。

アポロ神殿側から行くと一番奥のほう左にある、チーズ専門店、● Caseificio Borderi はその場でパニーノなどをつくって振る舞ってくれるまさに大盤振る舞いに感動します。チーズなどは真空パック(SOTTOVUOTO)にしてくれるのもありがたいですね。ここで売っているバルサミコソースもステーキやサラダに使い勝手がいいです。また、ここにある濃縮トマトペーストは天日干しで作ったものです。右隣の一番奥にある食材店●F.LLI Burgioでは、乾燥トマトなどを使ったお総菜がおいしいです。Via Camillo Benso Conte Cavourにはシチリア各地の特選食材をそろえた店があります。試食させてくれるのも魅力です。



シラクーサ ネアポリス考古学公園付近MAP


シラクーサ オルティージャ島MAP



ノート 「石の園」と謳われる後期バロック建築の美しい街並み (UNESO世界遺産)
タオルミーナからの距離: 145km、 専用車にての所要時間: 約110分

ノートの全景

ニコラーチ宮殿のバルコニー持ち送り

インフィオラータ 2013

ノートは1693年の地震で町が完全に破壊されてしまうと、バロックの気風に満ちた再建策が打ち出され、新く丘陵の下り斜面に都市計画に基づき、平行するまっすぐな道、適度な間隔に装飾的な広場を配置し、堂々とした大階段が段丘と斜面をつなぎました。建築家チェーザレブランディが「石の園」と謳った空間は巨匠の指揮のもと大理石職人たちによって築き上げられました。その整然とした美しさは他に類をみません。


町を貫くヴィットリオエマヌエレ通りに沿って見どころが立ち並びます。


貴族らが競って屋敷や教会を次々と建設しましたが、中でも目をみはるのがニコラーチ館です。この屋敷のバルコニーの凝った装飾は目を見張ります。宮殿内も見学可能で、かつての貴族の優雅な生活が偲ばれます。


ノートの町の美しさを鑑賞するのにおすすめなのが、高いところにあがって町全体を見晴らすことです。カルロ・ボッロメオ教会の鐘楼からの眺めは見事です。 また、ノートを訪れたら是非立ち寄りたいのがカフェシチリア Caafe Sicilia(メインストリートとニコラー地通りの角に位置)シチリアのみならずイタリアでも有名なパテシエのカフェです。選りすぐり素材から作られるお菓子はどれも逸品ですので是非お立ち寄りください。(冬季、年末年始は休業のことがあります。)


ノートの町では毎年5月にINFIORATAの祭りがあり、ニコラーチ通りを一面花びらで飾ります。生花なので、たった一日ですが、夜通し準備します。この数年毎年テーマを決めて制作していて、2013年のテーマは日本、2014年のテーマはロシアでした。

カルタジローネ 陶器とプレセピオの町 (UNESO世界遺産)
タオルミーナからの距離: 124km、 専用車にての所要時間: 約120分

街並み

▲聖マリアデルモンテ教会

▲陶器で飾られた大階段

陶器で有名なカルタジローネは標高600mの眺めの良い高地に位置しています。かつてサラセン人(アラブ人)の要塞でしが、1693年の大地震の後に再建されましたそのため町には典型的なバロックスタイルの教会が建ちましたが、旧市街にはシチリアには珍しいと思われる中世的要素も多少見られます。


町を上から眺めると羽を広げたワシの形に見えますため、ワシがこの町のシンボルマークになっています。町の名はおそらく「壺の丘」をいみするアラビア語を語源としています。実際にこの一体は良質の粘土層に恵まれていて、先史時代以来の陶器の遺品も数多く出土しています。


1918年に市の助役だったドン・ルイジ・ストゥルッツォが創立した「セラミック芸術協会」が、町の陶芸の発展に果たした役割も大きく、1965年には先史時代から現代にいたるシチリアのセラミックコレクションを収蔵する州立セラミック博物館も誕生しました。これはこの分野ではファエンツァのものについでイタリア第二の規模をほこる充実した博物館になっています。


このほか、工芸品ではプレセピオ(キリストの生誕を祝う人形飾り)やタイルが有名です。18世紀から19世紀にかけてのプレセピオはプライベートコレクションやセラミック博物館にも集められていますし、ロンドンの大英博物館にも「カルタジローネのプレセピオ」の展示があります。有名なナポリのプレセピオをモデルとしていて、薄い粘土層を用いて制作した人形群でキリスト誕生の場面を表現しています。12月にはカルタジローネのあちこちの教会で非常に趣向をこらしたプレセピオが公開され、たくさんの人がこのプレセピオを見るためにやってくるほどです。


町のシンボルは17世紀に当時町の中心地だった高台とサンジュリアーノの平地とを結ぶために作られた、サンタ・マリア・デル・モンテの階段です。142段の各々に有色タイルが施され、そこに12世紀から20世紀に至るこの土地のセラミック様式の変遷をたどることができます。階段を上りきったところにはサンタ・マリア・デル・モンテ旧教会があります。おそらくノルマン時代に創建されたもので、1693年の大地震で崩壊した後に再建されました。この大階段では毎年7月24日、25日に有名なルミナーリアの祭りが催されます。4000個の色提灯が毎年形を変えて階段に並べられる様子は幻想的です。


旧市街の入り口にある公園はG.B.フィリッポ・バジーレが19世紀に設計したもので、マジョルカ焼きを装飾に使用しています。ローマ通りに面した装飾テラスもきれいです。州立セラミック博物館は公園に隣接しています。

ラグーサ 後期バロック建築群 (UNESO世界遺産)
タオルミーナからの距離: 158km、 専用車にての所要時間: 約130分

詳細は準備中です


▲聖ジョルジョ大聖堂

▲ラグーサイブラの街並み

▲イブレイ地方の石垣の風景

▲聖ジョルジョ大聖堂のクーポラ

モディカ アステカから伝わったと言われるチョコレートと後期バロック建築群の町 (UNESO世界遺産)
タオルミーナからの距離: 173km、 専用車にての所要時間: 約150分

詳細は準備中です


▲聖ジョルジョ大聖堂を望む

▲聖ピエトロ教会

▲モディカ街並み

ピアッツァア・アルメリーナのヴィッラ・ロマーナ ローマ時代のモザイクの屋敷 (UNESCO世界遺産)
タオルミーナからの距離: 156km、 専用車にての所要時間: 約130分

▲狩猟の間

▲寝室に描かれているモザイク

▲こんなリアルなシーンも

▲ビキニに少女の間

ヴィッラ・ロマーナはピアッツァアルメリーナの近くのマンゴーネ山の麓に位置し、その建設は4世紀(327〜357年)に遡り、政治的に力のある有力者の私的かつ公的な館であったという説が有力です。3500㎡の敷地に63室の42の床にはモザイクが施されていますが、その面積3500㎡、3千万個に及ぶ37色の小石が敷き詰められています。このヴィラが所有する床モザイクの数々は、古代ローマ時代のシチリアにおける最も多様で見事なもので、また古代世界を知る上での重要な資料です。それぞれの部屋に描かれたさまざまなモチーフから当時の生活、風習、価値感、生態系などをあらゆることを現代に伝えてくれます。


1950年代から本格的に発掘されて風雨からモザイクを守るために当時つけられた温室のような構造物も何十年もたち、老朽化、ほこりや湿気によりモザイクの間から雑草が生えてくるような状態で、かなり痛みが激しかったのですが、数年間かけて大修復をおこない、新しい構造に作り直し再オープンしました。


傾斜地に設けられたこの屋敷はおおきく四つのレベルにわけ、それぞれのレベルを機能ごとにわけています。まず一番低いレベルにおかれた面には、正面玄関、浴場、トイレが設置され、それより一つ高い面には屋敷の中で一番華やかなところであったサロンや客室とそれらに面した列柱に囲まれた中庭、そして3段目のレベルには三弁模様の広間のあった楕円形のペリステュリウムがおかれ、一番高い位置に後陣のある大きなバジリカがそびえ、そこから大狩りのシーンのある長い廊下とプライベートな私室の部分へと続いています。


遺跡の入り口を入るとまず左側に水道橋が見られます。この屋敷に水を引くためのもので、近くの川から水を引き入れていれ浴場施設やトイレに水が供給されていますが、水洗トイレが整えられ、床暖房設備があるということに驚かされます。


漁や狩猟シーンなど動物が多く描かれていますが、こういった場面の中で人間だけでなく動物の心理までもが生き生きと描き出されています。モザイクという物質的限られた情報量(言ってみれば低い画素数)のなかで、これだけの表現ができるということに感動をおぼえます。北アフリカの職人がこのモザイクを仕上げたと言われていますが、狩猟のシーンなどをみるとこのような迫力のあるシーンはまさにそういう場面をまのあたりにした現地の職人だからこと実現できたと納得できます。


オデュッセウスはトロイ陥落後にこの地中海を回遊し、このシチリアで一つ目巨人と会いそこから彼の苦難が始まるわけですが、まさにオデュッセウスが一つ目巨人と対峙する場面が描かれています。それぞれの人物の心理などがとても細かく描写されています。神話では一つ目巨人ですが、ここでは三つ目で描かれています。そのわけは。。。。ご一緒に見学の際に詳しくご説明しましょう!


アグリジェント 起源前5世紀のギリシャ神殿群 (UNESCO世界遺産)
タオルミーナからの距離: 220km、 専用車にての所要時間: 約3時間弱

シチリアにギリシャ人が入植してくるのは起源前8世紀のことで、それから約2世紀にわたりギリシャ人の町が築かれていきます。アグリジェントはその中で一番最後に築かれ町です。もともとロードス・クレタのドーリア人がジェラを建設するのですが、そのジェラの副次都市として起源前580年に築かれたのがこのまちで、当時アクラガス(高台の町という意味)と呼ばれていました。

アグリジェントは二つの川サンビアジョ川(古代名アクラガス川)とドラゴ川(古代名イプサス川がそれぞれ東西から町の周囲を囲み、南側で合流して地中海へと流れ込みます。この川の河口が港となり、当時繁栄の頂点にあったカルタゴとの交易などを背景に、経済的に発展し、東海岸のシラクーサと共にマグナ・グラエキアの繁栄の一端を担いました。当時人口が20万~30万あったとされています。アクラガスは起源前480年シチリア北海岸線にあるヒメラの戦いでカルタゴを破り海外派遣を確立し、その絶頂期を迎えます。現存する多くの神殿群もほとんどがその後に築かれたものです。


▲コンコルディア神殿

▲ヘラクレスの神殿

▲ディオスクリ神殿

▲テラモン像

▲ディノス

▲エフェボ

神殿の谷

シチリアでも最大のギリシャ神殿遺跡であるこの神殿の谷は、実際には切り立った粘土質の崖の上に広がる広大な台地の上にありますが、高台にあるアグリジェント市街地の下にあるので谷と呼ばれています。この段丘の稜線に沿って10あまりの神殿が点在しています。これらの神殿は紀元前6世紀末~5世紀末にかけて造営されたものです。

アグリジェントにある神殿群はドーリア式神殿で、ヘラ神殿・コンコルディア神殿・ヘラクレス神殿は神殿全体を取り巻くように,四周に列柱廊が造られている周柱式/周翼式((ペリプテロス式)神殿、ゼウス神殿は列柱が並ぶかのような壁に囲まれている疑似周柱式(プセウド・ペリプテロス式)神殿です。

▲ペリプテロ式神殿

▲プセウド・ペリプテロス式神殿

一番高台にあるのがヘラの神殿です。起源前450年~起源前440年頃の建設で、ここでは婚礼の儀式が行われました。

もっとも保存状態がよいとされているのがコンコルディア神殿で起源前430年頃の建設です。ディオクロイ神に捧げられたものとする説もありますが、詳しくはわかっていません。「コンコルディア」の名は近くから出土したラテン語の碑文から取られています。正面6柱の円柱式で外周の34本の柱は元々漆喰などが塗られていました。6世紀頃に聖ペテロ・パウロ教会として転用されましたがそのためにきわめてよい保存状態にあります。1784年に元の姿に戻されました。保存状態が良いのでドーリア式神殿の特徴がよく見てとれます。

ギリシャ神殿が教会に転用されたらどのようになるのか、その答えの一つがシラクーサのドゥオーモにあります。シラクーサにいらっしゃる方は古代ギリシャ神殿が教会に転用され今なお教会として存続しているという奇跡的な建造物を目にすることができます。

コンコルディア神殿の下方には初期キリスト教時代の4世紀のネクロポリスと3世紀のカタコンベがあります。続いて、現在遺跡の管理局としても使われているアウレリア邸があります。アレックスハードキャッスルが1921年英国総督としてこの地に赴任した際、ここに住んでいました。神殿の修復、研究などに私財と半生をささげ、1933年にこの地で没しました。

アウレリア邸のすぐ脇にあるのが、ヘラクレス神殿で、もともとあった一本の円柱と1922~1924年にハードキャッスル卿によって復元された8本の円柱が残るのみですが、アグリジェント最古の紀元前520年に建てられたものです。これはアルカイック建築の典型的な特徴を備えています。

アグリジェントで最も大きな神殿がゼウス神殿で、僭主テロンが紀元前480年のヒメラの戦いでシラクーサの僭主ゲロンと協力してカルタゴを破った記念に奉納したもので「ヒメラの戦い」で得たカルタゴ人捕虜を動員して建てられましたが、未完成に終わっています。総面積6340㎡あります。世界的な規模では①エフェソスのアルテミス神殿、②ディディマのアポロ神殿(起源前8世紀)、についで三番目に大きなギリシャ神殿です。 奥行き113.2m、幅56m、高さ38mの神殿です。

神殿の前には長さ56m幅12mの祭壇があり、エカトンベといわれる雄牛の生け贄儀式が行われました。神殿に横たわっている巨人像柱はテラモンと呼ばれる男性像(女性像もありカリアーテと呼ばれています)で、7.65mありますが、これはレプリカで、オリジナルは考古学博物館の中にあります。近年のコンピューター解析などに解明された新たなテラモン像が展示されていますが、こちらはレプリカでなくオリジナルです。

ゼウス神殿の奥からは、起源前5世紀まつ頃建立のディオスクリ神殿の4本の柱、遠方にヴルカヌス神殿の2本の円柱が見られます。


州立考古学博物館

考古学博物館にはアグリジェントや近郊からの出土品が年代を追って納められています。起源前7世紀頃のディノス(深鉢)には3本足と顔のトリスケレスが描かれています。このころすでにこのモチーフがシチリアを象徴するものとなっていたことがうかがわれます。

数々の陶器からは当時の宗教感やお魚料理のためのガルム(魚醤)をいれるための窪みのある皿のように生活感がうかがわれるものあり大変興味深いです。博物館の一番おおきなスペースにはゼウス神殿にあったテラモン像のオリジナルがあります。室内に立てて展示してあるため神殿にあるレプリカより大きな印象を受けますが、このテラモン像が神殿の上半分くらいにあったことを考えるとゼウス神殿がどれだけ巨大だったかおわかりいただけると思います。

テラモン像の上左あたりにエフェボ(青年像)があります。起源前5世紀のものですが、髪の毛や足が一歩前にでるところなどアルカイック期の典型的なスタイルで、均整のとれたひきしまった理想の青年像です。後ろからがとても美しいのでお見逃しなく。

さらに進んで行くとヘレニズム期の彫刻や石棺がありますが、ローマ時代の子供のための石棺の彫刻が見事です。幼い子供が亡くなった瞬間の家族の悲しむ様子が彫り込まれています。

近郊の出土品の中で一番目を惹くのがジェラ出土のクラテルです。ほぼ完全な形で残っていますが、このような大きなものが完璧に残っているのは貴重です。

 

エトナ山 ヨーロッパ最大の火山 (UNESO世界自然遺産)
タオルミーナからサピエンツァ避難所までのの距離: 56km、 専用車にての所要時間: 約90分

ヨーロッパ最大の活火山で、2014年にユネスコ自然遺産に指定されました。現在1900m付近のRifugio Sapienzaまでは車でアクセス可能(タオルミーナから約90分)です。活動状況次第では、ロープウェイにて2504m、特別仕様ジープにて中央火口群麓の約2900m付近、さらにガイド同行のもと蒸気の上がる近年の火口跡付近まで訪れて、その壮大で活発な火山活動をまのあたりにすることができます。


▲タオルミーナから見るエトナ山

▲赤く燃える溶岩流2014年

▲2900mジープで、頂上火口群が間近

▲山麓に生息する野生の狐

標高3357M*(富士山3776M)、裾野円周約200km(富士山165㎞)、直径約65km(富士山最大直径約40km)表面積1570㎢でシチリア全土の1/20以上を占めています。ヨーロッパ最大、世界でも屈指の活火山で山腹には小さな噴火口が200もあります。現在頂上付近に4つの火口群が活動しています。
*標高は火山活動によって変化しており、2021年の噴火活動でそれまで最高標高を誇っていた北東火口を抜き近年活動が活発な南東火口が最高地点となりました。


エトナとはギリシャ語で燃え上がるようなという意味のアイトに由来しています。エトナ山が50万年前に海底で生まれ、その後20万年前に海の上に顕れ、活動を続けて現在のような3000m級の山になりました。富士山と同じ成層火山です。20,000年前にはフランカビラ近くのモイオの噴火で大量の溶岩が流れ出ましたが、その際には溶岩が現在のジャルディーニ付近のカポスキソーの海岸まで達しました。このカポスキソーがナクソスの天然の港を作り出します。


エトナの活動は非常に活発です。頂上火口群からは常に蒸気が上がっていますが、石や砂を含む噴煙を爆音とともに吹き上げることもしばしばです。その高さは通常数百メートルに達しますし、灰は風に運ばれ、周辺地域に降り注ぐ他、海を越えてカラブリア半島やアフリカ大陸まで届くこともあるのです。


有史以来数多くの噴火の記録を持っていますが、中でも大きな噴火の記録は紀元前475年、396年、36年、そして1183年、1329年、1669年のものです。1669年の噴火の際に流れ出した溶岩流は2400m下のカターニア付近まで達し、海岸線の位置も一気に数百メートル変わってしまいました。近年の大噴火は2001年7月、2002年10月ですが、2002年の噴煙がアフリカまで達したのを衛星がとらえています。ケーブル施設や道路もその溶岩流に飲み込まれましたが、1年近くたって冷えた溶岩でさえまだ蒸気があがるほどの地熱、地球のエネルギーには圧倒されます。


エトナ山は、溶岩流の制御を人為的に行ってきたことでも有名で、1970年代以降、噴火のたびに何回も試みられています。1983年、1992年の噴火では、溶岩が流れる方向に人工の堤防や溝を作り、進路を変えるよう試みています。全ての制御がうまくいったわけではありませんが、試行錯誤をくり返しながら、居住地に溶岩が流れ込むことを何とか阻止してきました。イタリアでは火山の科学的研究活動を行う機関、国立火山学連絡会議INGVがあり、火山の危機から地域を守るための活動もしています。エトナ山のみならず、ヴェスービオ山、ストロンボリ島、ブルカーノ島などについても監視化におかれています。火山ガスや水蒸気の噴出の様子、噴気の温度の上昇、噴出される化学構成物などの観測を行ったり、特に衛生GPSシステムや他の精密機器などを用いることにより、今日測定が可能になった地表のゆがみなどを継続的に観測し続けることにより、遅くとも一ヶ月前には火山の噴火を予測することができるといわれています。


火山の近くに住んでいて怖くありませんか、危険ではないですかという質問をよく受けます。特に2014年10月の御岳山の噴火は記憶に新しいので、危ないというイメージをお持ちの方も多いとおもいます。


エトナ山は活火山でいつも蒸気が上がり、数日以上も続く大きな噴火は数年に一度ですが、数時間程度の噴火は年に何度も起こります。年に何度か小噴火をしておりエネルギーをため込まないのでしょうか、そのせいか大噴火?には至りにくいようです。上述のようにイタリアの20以上ある火山の中でも最も重要な監視体制の元にあり、本当に危なければ、山麓の村に非避難勧告も出されますが、3340mの山の3000m付近以上の頂上火口群から山麓の村までは相当に離れていますので、ほとんどと言っていいくらいそういう事態にはいたっておりません。タオルミーナは山麓の外60km以上離れていますので、灰が数年に一度降ってくるくらいです。


エトナ山は人気の観光地で、2000mまでは車で、そこからロープウェーで2500m付近まで行き、そこからジープで2900m付近まで行くことができます。頂上火口からは直線距離にして400mくらいというところです。そこで、数年前の火口の周りを山岳ガイドと共に回るというのが一般観光で行われていますが、希に風向きによって多少のルート変更がある程度です。頂上火口付近は現在は入山規制が敷かれています。入山規制の敷かれている頂上火口群を登山をするというのであれば危険かもしれませんが、そうでなければ心配には至りません。活発な活動の時には夜に赤く燃える噴火が見える時もあり、タオルミーナからはその様子が見て取れるほか、静かな夜などには噴火の際の地響きのような音も聞こえるのが観光客にもとても人気です。


エトナ山は上述のように過去に何度も町に溶岩流が襲いかかるなど地域生活に大きな影響を与えてきたのですが、シチリアの人々はこの火山を深く愛し、誇りと感謝を持って暮らしています。降り注ぐ火山灰もやがては肥沃な土壌となり、恵みを与えてくれていることをよく理解しているのです。はるか昔からこの地の人々は火山とともに暮らしてきており、その知恵が人々の営みにみてとれます。


ところで、エトナ山はイタリア語でETNAと「A」で終わる女性名詞です。同じ火山のヴェスーヴィオ山VESUVIOは「O」で終わるので男性名詞。頻繁に小噴火をするが大爆発には至りにくいエトナはいつも小言を言って少しづつ発散している女性のようで、静かな山と思われていたのに突然大噴火を起こしポンペイの町を埋もれさせてしまったヴェス-ヴィオ山は、普段はじっと絶えて語らないけれど一度爆発したら迫力ある男性的、なんとなく納得してしまうのは私だけけでしょうか。


(一部出典 Esagonal s.n,c, Etna Sud Nicolosi 制作DVD 日本語を含む多言語DVDでエトナ山サピエンツァ避難所付近にあるカフェESAGONALにて入手可能です。)

エオリエ諸島 ギリシャ神話の風の神エオロの島々 (UNESCO世界自然遺産)
タオルミーナからミラッツォ港までの距離: 85km、 専用車にての所要時間: 約75分 港からは島によって高速船で60分〜2時間30分

ユネスコ世界遺産に指定されているエオリエ諸島は七つの火山島からなり、ギリシャ神話では風の神の住まう島々とされています。活発な火山活動の見られるヴルカーノ島やストロンボリ島、先史時代の遺跡のあるせリパリ島、パナレア島、フィリクーディ島、映画「イル・ポスティーノ」の舞台となったサリーナ島、孤島感のあるアリクーディ島。どの島々も澄み切った海と独自の文化が魅力です。


詳細は準備中です

▲エオリエの澄んだ海

▲ブルカーノ島泥温泉

▲リパリ島からブルカーノ島を望む

▲サリーナ島