タオルミーナのおもな見どころ

ギリシャ劇場(タオルミーナ古代劇場)
Teatro Antico di Taormina

開館時間: 9:00~日没 入場料: €10 タオルミーナマップ:G3


タオルミーナ古代劇場

▲岩場をくりぬいたタオルミーナ古代劇場

▲ローマ時代の劇場の再原図

▲ジャルディーニ湾を背景にした古代劇場

シラクサに次ぐシチリア島第2の規模を誇るタオルミーナのギリシャ劇場(タオルミーナ古代劇場)は紀元前3世 紀、シラクーサの脅威も落ち着いた頃に建設されました。シラクーサと同じように岩場の斜面からすり鉢状に石を切りだしたものです。この劇場をつくるために、50,000トンから100,000トンの石灰岩をきりだしたといわれています。


ここではギリシャ悲劇が上演されました。これは一種の教育、文化、宗教的行事で観劇を通じて人々は人生の意義、善悪、宗教感を学んだりしたのです。俳優は男性だけ、役柄を表す面をつけていましたが、女性役は白の面を着けていました。オーケストラは現在とは違い合唱団が歌ったり踊ったりする場所で、俳優との掛け合いなどもありました。


その後、ローマ人はこれをローマ風に改装します。下段をとり、オーケストラを拡張、上部には56本の柱からなる回廊をつけ柱の裏には貧民のための木の席がつけられていました。幅109mで5400人が収容できます。回廊の裏側には神殿もありましたがローマ人はこれも壊しています。また天幕が張られたので聴衆は暑い日差しや雨から守られていました。


現在でも毎年5月から9月にかけてタオルミーナアートフェスティバルが開催され、映画祭、コンサート、オペラ、ファッションショーなどの数々のイベントが行われます。


ところで、ギリシャ時代の劇場は半円形をしていて、舞台後ろの風景を取り込むようになっています。劇場が海の近くであれば、客席からは舞台の後ろに海が見え、内陸の劇場ならば山が見えるように作られます。海も山もあるタオルミーナのギリシャ劇場は遠くに噴煙をたなびかせたエトナ山が見え、客席の高い所からだと舞台の後方に海とナクソスの街がよく見えます。 もともとこの町を築いたナクソスの人々の住んでいた地、港がよく見えるように作られていたのです。


ギリシャ劇場は一番高いところは標高250mで、南はイオニア海からエトナ山、北側にはメッシーナ海峡とイタリア半島の大パノラマが楽しめます。


メッシーナ海峡

約50kmでメッシーナ海峡は一番狭いところで2.8km、深さ約70m、2000~3000mの深さのティレニア海と約1000mの深さとなるイオニア海がここで絞り込まれるため複雑な潮流の流れ、渦巻き、蜃気楼の発生する海の難所として昔から知られていますが、この海峡に深い海で生息するカジキが繁殖のためにこの海峡の水面上に現れてくるのが6月から8月ごろにかけてでこの時期カジキ漁がさかんに行われています。

聖パンクラツィオ教会
Chiesa di San Pancrazio


聖パンクラツィオ教会

▲聖パンクラツィオ教会

タオルミーナの守護聖人で最初の司教のパンクラツィオの教会は18世紀のバロック様式で古代ギリシャのゼウスセラピスの神殿の基礎を土台につくられていて、今でも教会の外壁の下部にその石のブロックを見ることができます。聖パンクラツィオはアンティオキアで生まれ、聖ペテロがタオルミーナの司教としてシチリアに派遣しました。たくさんの者がキリスト教に改宗しましたが、快く思わない誹謗者がわなにかけ、木の偶像に接吻させようとしますが、パンククラツィオが十字を切ると粉々に砕けてしまいました。これが彼の命取りとなり、撲殺されてしまいました。タオルミーナのパンクラツィオの祝祭日は毎年7月9日ですが、大きな行事は4年に一度、聖パンクラツィオ像とともに聖ペテロ像も一緒に行列します。

  

メッシーナ門
Porta Messina


▲メッシーナ門

古代、タオルミーナはメッシーナを臨む北側から北東部分を通り、カターニアを臨む南側まで続く三重の城壁で守られていました。今日、カターニア門、メッシーナ門、時計塔にそのわずかな一部を見ることができます。
北側のメッシーナ門は19世紀に修復されていますが、1808年ブルボン朝のフェルディナンド4世によって海沿いの道が開通したのを記念して作られたこの門はフェルディナンド門と呼ばれていました。門の上部にこのことが刻まれています。

コルヴァイヤ館
Palazzo Corvaja


▲コルヴァイヤ館

Piazza Badiaにあるこの館は町の中でも重要な中世の館です。タオルミーナでも古くからの貴族のコルヴァイヤ一族が1538年から1845年までこの館を所有していたのでコルヴァイヤ館と呼ばれています。この町の時の支配者たちがそれぞれの様式で増築したのでアラブ、ゴシック、ノルマンの様式が見られます。9世紀から11世紀にかけてアラブ人がシチリアを支配していましたが、タオルミーナは902年から1079年までがアラブ支配です。アラブ人時代の町の中心はビザンチン時代のまちを引き継ぐ形で南西部に発達しましたが、この北東の端に要塞をおきました。これが、中庭に面する北翼です。
左は13世紀初頭フェデリーコ2世の時代に拡張されそれとともに1階に続く階段もつけられました。エヴァの創造、原罪、楽園追放のレリーフが見られます。ヴィットリオエマヌエレ広場に面する右翼は1400年初頭に増築されたものです。シチリアがホーエンシュタウフェン家の断絶により、アンジュー家、アラゴン家の支配されますが、その最後のMartino il Vecchioがなくなると、すでになくなっていた息子若いマルティンの妻ビアンカ・ディ・ナバラが議会を作り建設したもので実際にここでシチリア議会が行われました。そして、若いマルティンの庶子であるフェデリコ・ディ・ルナが選ばれ、ほんのわずかのあいだシチリア王になりましたが、アラゴン家の相続争いは結局カスティリアのフェルナンド王子が引き継ぐこととなりました。

オデオン
Odeon


▲オデオン

オデオンは音楽コンサートホールで、古代劇場と同じような建築様式です、建設は紀元前21年頃、タオルミーナがローマ軍植民地となった初代皇帝の時代のことです。オーケストラの直径は11mで、古代劇場と比較するとかなり小さく、収容人員は約200人です。
サンタカテリーナの丘の裏側に建てられたこのオデオンは1892年6月5日に偶然発見されましたが、それ以前はその存在すら知られていませんでした。鍛冶屋のアントニオ・バンバラが自分の土地を掘っていてこの煉瓦の建物が出てきたのです。翌年から本格的に発掘されてオデオンが姿を現しましたがかなり損傷しています。
オデオンは、スケナ、オーケストラ、カベアの3つの部分で構成され、煉瓦を石で覆う形で作られた典型的なローマ劇場の建築様式です。もともとあったギリシャ時代ヘレニズム期の神殿の土台、列柱を基礎にスケナがつくられました。ギリシャ時代のオリジナルの柱と石段からギリシャ神殿を想像することができます。観客席は伝統的な16段の階段席からなる半円形で5つに区分されていました。
この小さなオデオンはポリスの中心に位置し、政治、軍事、宗教などの有力者やその家族やゲストのために執政官や、重要な市民、軍人、宗教関係者やその家族とゲストのために使われました。

聖カテリーナ教会
Chiesa di Santa Caterina


▲聖カテリーナ教会

アレキサンドリアの聖女カテリーナに捧げられたこの教会の正確な建設時期は定かではありませんが、もともとは教会の外にあった納骨堂の銘板のレリーフが現在、地下納骨堂に続く階段の壁に掲げられていて、それによると、1663年に建設されたと思われます。
教会正門扉の左が聖具室ですが、聖具室の建設は教会より早く16世紀の建設と考えられます。聖具室ファサードは貝殻があしらわれた2つの窓で飾られていますが、門のアーキトレーブ(縁)にも同じ装飾が施されています。
教会はオデオンの上に建設されたため、教会裏手にその一部を見ることができますが、教会の建設によって、スケナとオーケストラの一部が破壊されました。

聖カテリーナ Santa Caterina
聖カテリーナはアレキサンドリアの貴族の娘でしたが、ローマ皇帝の偶像崇拝を批判し、自分のキリスト教信仰を捨てませんでした。車裂きの刑を命じられましたが、車は彼女が触れるとバラバラに壊れてしまいます。結局、首切りの刑になり遺体はアレキサンドリアに埋葬されますが、奇跡が起き、天使が遺体をシナイ半島の最も高い山へ運んでいきました。9世紀にエジプトの聖カテリーナ山の山頂で修行僧が伝説の首のない遺体を発見し、今は修道院に安置されています。

ナウマキエ
Naumachie


▲ナウマキエ

ジャルディナッゾ地区にあるナウマキエは古代劇場とともに、タオルミーナでも最も古いギリシャ時代の遺構で、紀元前3世紀頃の建設でローマ時代に改装された跡が見られます。長さ122m、高さ5mのこの壁は3m幅奥行き1.7mで、18のニッチがあしらわれていますが、ここには、もともと神々や英雄たちの像がありました。ジムナジウムは通常長方形で、四方は柱廊のアーケードに囲まれていました。ギリシャ時代に若者がスポーツによって心身を鍛える場でした。海戦を意味するナウマキエと呼ばれているのはこの残っている壁の裏手が町の大事な貯水槽であったことからきているものと思われます。

4月9日広場
Piazza 9 Aprile

▲4月9日広場と聖ジュゼッぺ教会

▲メッゾ門(時計塔)

▲旧アゴスティーノ教会(市立図書館)

カフェが立ち並び、毎年クリスマスには大きなクリスマスツリーが飾られるタオルミーナ中心の広場です。ここからはジャルディーニ湾からエトナ山にかけての壮大なパノラマが臨めます。また、眼下にはタオルミーナの鉄道駅、カポタオルミーナ岬が見えます。カポタオルミーナの先端には映画「グラン・ブルー」のワンシーンが撮影されたカポタオルミーナホテルのプールサイドレストランも見えます。
以前は聖アゴスティーノ広場と呼ばれていました。1860年4月9日ミサの最中にガリバルディーがシチリア上陸したという報せが届き人々は歓喜にわきました。実際にガリバルディーがシチリアに上陸したのはそれから1ヶ月後でしたが、タオルミーナではその時にわかちあった喜びを記念して広場を4月9日広場としました。
時計塔のあるメッゾ門は紀元前4世紀の古代都市の城壁のあとに12世紀以ころに作られたものですが、1676年のルイ14世のフランス軍の侵攻の際に破壊され、1679年に市民によって再建されました。

メッゾ門
Porta di Mezzo

15世紀のボルゴ地区の入り口だったところですが、もともとは12世紀の建設で、1676年のフランス軍進攻の際に、破壊されてしまいました。現在見られる塔はその後の1679年の再建によるもので、その際市民がここに大きな時計をとりつけ、以後時計塔と呼ばれるようになりました。北側の半円アーチなどは近代に再建されたものですが、南側はまだアラブ時代のオリジナル部分が残っています。また基部の大きなタオルミーナ石の部分は古代、紀元前4世紀の市壁部分だったところです。

旧聖アゴスティーノ教会(市立図書館)
Ex. Chiesa di S.Agostino

聖アゴスティーノ教会は現在は町の図書館となっていますが、1448年に市民が町を奇跡的にペストから救ってくれた聖セバスティアーノの捧げて建設したものといわれています。
後の1530年アゴスティーノ派の神父 がタオルミーナにやってきて教会を拡張し、修道院にしたため、聖アゴスティーノ教会と呼ばれるようになりました。教会はつなぎ梁りの天井を四つのニッチが支える形で、各サイドは偽コリント様式の柱で装飾されています。もともとは後期シチリアゴシック様式でしたが、1700年ごろに正面入り口の丸アーチ部分をタオルミーナ石でアーキトレイブに改装されました。ファサードに見られる現存するオリジナル部分は、バラ窓部分とアーチの上部のみです。

ドゥオーモ広場
Piazza Duomo


ドゥオーモ

ドゥオーモ

▲ドゥオーモ広場


聖アガタ

▲ドゥオーモ広場噴水


聖女アガタ

▲聖女アガタ像

タオルミーナのドゥオーモは堅固な要塞のような作りで、バーリの聖ニコラに捧げられた中世1の小さな教会の廃墟の上に1400年ごろに建設されました。3廊式のラテン十字の教会で、側廊には6つの小さな祭壇があります。列柱は両側それぞれ3本、タオルミーナの赤い大理石が用いられ、柱頭は魚の鱗の文様で装飾されています。身廊上部の天井に木製のトレーブがあり、アラブの文様を再現したゴシック風の装飾が施されています。ファサードのポルターユは1636年に修復された際に、ルネッサンス風のバラ窓がつけられました。
Maltino Montaniniによる聖アガタの絵画はもともとサンドメニコ修道院にあったものですが、戦時中に大聖堂に移されて現在に至っています。


ドゥオーモ広場の噴水

このバロックスタイルの噴水はタオルミーナ石(タオルミーナで切りだされた赤身を帯びた石)を用いて1635年につくられています。噴水の周囲に4つの柱があり、その上にそれぞれ海馬があしらわれていて、その口から水槽に向けて水が流れるようになっていましたが、現在は一つだけ水が出ます。本当の噴水は中央部の二つの水槽で、小さな水槽の縁外側には、その当時の町の行政者の名前が刻まれています。上部には右手に笏(しゃく)、左手に地球儀を持つタオルミーナのシンボル、チェンタウレッサ(半人半獣の女性)の彫刻があります。


聖女アガタ Sant'Agata

3世紀頃のカターニアの人。クインティアヌスという執政官にしつこく付きまとわれましたが、神に身を捧げていたアガタその求婚を拒んだためにキリスト教徒として訴えられて、両の乳房を切り取られるという衝撃的な拷問にかけられました。聖女アガタは絵画などでは裸の乳房を大きなはさみみで切り取られるシーンが題材に取り上げられたり、大皿の上の両乳房のシンボルで表わされます。カタ-ニアの守護聖人で四大殉教聖女の一人です。毎年カターニアではこの2月の祝祭日には御聖体をかつぐお神輿や他の同業者組合の山車などが町を練り歩く熱狂的な宗教行事が行われています。乳房の形に似ているため、釣鐘職人の守護聖人でもあります。

ドゥーキ・ディ・サント・ステファノ館
Palazzo Duchi di Santo Stefano

▲ドゥーキ・ディ・サント・ステファノ館

この館はシチリアゴシック建築を代表する建物で、アラブとノルマンの様式を融合したものです。 アラブ様式が見られるのは北面と東面の上部には菱形のシラクーサの白い石と黒い溶岩の帯状の装飾(Frigioフリーズ)で美しいはめ込み細工の峡間を形成しています。 ノルマンの影響は、四角い低い塔の形で、上部のツバメのしっぽ形の峡間に見られます。 館は三階構造になっていて最下部は黒い玄武岩とタオルミーナの白いGranito石で縁取られた尖塔アーチの門の扉があります。中の白い柱は古代劇場からのものと思われます。一階は二つの二連窓の間にある小さな入り口に跳ね橋とはしごをかけてはいるようになっています 内部の階段は木製で修復の際に再建されました。二階にはゴシック様式の美しい窓が東面と北面にそれぞれ二つあり、北面がより高貴な作りです。ニ連窓は上部にすかしのバラ窓、三片葉をかたどったアーチ、3重の側柱で縁取られた大変手のこんだ装飾です。 北面と東面に面する前庭には雨水をためる井戸があります。 1964年にタオルミーナ市が、64,000,000リラで、パレルモ在住のDe Spuches家の末裔Vincenzo De Spuchesから購入しました。1400年以前にはカステルモーラの貴族が住んでいたとする説もあります。現在はMazzullo協会の事務所が置かれている。Mazzuloは伝統を現代的にアレンジした彫刻家で、彼の作品が多く所蔵されています。

バディア・ヴェッキア
Badia Vecchia

▲バディア・ヴェッキア

1355年から幼弟のためにシチリアを統治、その後修道女となったエウフェミアの住まいだったとものと思われていることからバディア・ヴェッキア「古い修道院」と呼ばれています。しかしながら、この建物からは古い修道院関係のものがたくさん保管されていたので、実際に修道院として使われていたものと思われます。サントステファノ館と非常に似た建築様式でおそらく1300年代後半の建設と思われます。 内部は考古学博物館となっています。(入場無料、月祝休、9:00~13:00、16:00~20:00)

チャンポリ館 
Palazzo Ciampoli

▲チャンポリ館

チャンポリ館は玄関上部の紋章にみられるように、1412年に建設されました。タオルミナーにある中世期の建物の中では最も新しいものです。スペイン建築の影響もみられます。チャンポリ館はもともとコルバイヤ家のもので、後にチャンポリ家が所有しました。近代、1926年には一部がパラッツォヴェッキオ・ホテルとなりました。その後近年まではタオルミーナの有名なナイトクラブ「セスト・アクート」としても知られていました。2009年には別の一部が改装されホテル、El Jebelとして開業しています。

カターニア門 
Porta Catania

▲カターニア門

南側のカターニア門は幾度も改築、修復されていますが、1440年アラゴン支配時代に最後の改築が行われているので、アラゴン家の紋章が門上部に刻まれています。

旧聖ドメニコ修道院
Ex. Convento di San Domenico

▲16世紀の回廊の中庭

1895年に聖ドメニコ修道院跡地を高級ホテルに改装したもので、外観は質素ですが、内装は高級ホテルにふさわしい立派なものとなっています。1374年から1383年にかけて作られた半要塞屋敷はもともとはノルマン貴族、アルタヴィッラ家の子孫Cerami候ドメニコロッシが所有していましたが、彼がこれをドメニコ派修道会に寄付して修道院となりました。イタリア統一後修道院解体とともにタオルミーナ市が接収し、市がこのドメニコロッシの子孫に売却し1900年初頭から修道院部分を改装してティメオホテルに次ぐ2番目のホテルとなりました。戦時中ドイツ軍司令本部もおかれ、1943年7月爆撃にあい、教会部分は鐘楼を残してほぼ破壊されてしまいました。戦後ここは再建されホテルの多目的ホールとなりましたが、奇跡的に残った中世の祭壇が見られます。修道院の時代の16世紀の回廊のある中庭がほぼ完璧に保存されています。入り口にはドメニコ派の紋章、たいまつを加える犬のレリーフが見られますまた菜園も手入れの行き届いた庭で修道院の雰囲気を今に感じさせます。この庭園からの眺めは素晴らしいです。

市民公園
Giardino Pubblico / Villa Comunale


▲市民公園

▲市民公園からの眺め

イギリス人、鳥類学者でもあったフローレンス・トレベリアンが1800年代後半にタオルミーナのカチョーラ氏と結婚し、放置されていたこの地を買い取り、イングリッシュガーデンに改装してそこで鳥の観察を行いました。黒い溶岩と白い軽石でアクセントをつけた煉瓦で作られたパゴダ風の建物は夫人が鳥の観察のために作らせたものです。夫人の死後1920年代に市に寄付され市民公園となりました。約3ヘクタールの公園には典型的な地中海性植物が多い茂り、縦につけられた小道にそって、花壇や生け垣が作られています。オリーブの木は戦没者に捧げられています。また、"Teatro di Verzura" (Greenery Theatre)の近くに戦没者記念碑もあります。

イゾラベッラ
Isola Bella


▲イゾラベッラ

1988年よりシチリア州の自然保護地区に指定され、1998年よりWWF Italia-ONLUS, Associazione italiana per il World Wildlife Fund(世界自然保護基金)により管理されています。イゾラベッラは1983年にすでにユネスコが注目していましたが、1984年に発足したタオルミーナWWFのイゾラベッラを自然保護区にしようという活動により1990年7月にそれまで私有地だったイゾラベッラをシチリア州が買い取りました。

イゾラベッラはさかのぼると1806年にブルボン朝フェルナンド1世がタオルミーナ市に与えたものですが、経済的な理由で個人、イギリス人貴族のフローレンス・トラベリヤン夫人に14,000リラで売却されました。夫人はその後日中のかなりの時間を過ごすことになる小さな家を建てたばかりでなく、今日でも島の緑の主要部分をなすエキゾチックな樹木を取り入れています。20年あまりタオルミーナの市長を務めた夫のカチョーラ氏との間に一人の息子をもうけますが、出産直後に亡くなっています。

そのため夫人の死後島は夫のサルバトーレ・カチョーラ氏に託され、彼が1927年に亡くなると、甥であるチェーザレ・アクロッソ弁護士が島を相続します。彼はロ・トゥルコ氏に15,000リラで島を売却しますが、建築禁止とされていたため約50年この島は放置され地元漁師たちのみが利用していました。

こうした売買の末1954年に最後の所有者となったのが、キューバやロンドンに支社を置く柑橘類の濃縮果汁を扱うメッシーナのサンダーソン&サン社のオーナーであるボスルジ兄弟です。彼らはそれまで島がたどってきた運命を一転し、外観を損ねることがないよう配慮しつつ、ここに屋敷を建てて住まいました。彼らが暮らしていた間、島は事業家やショービジネス関係者などが集う華やかな場所となりましたが、サンダーソン社の倒産により競売にかけられ1990年7月にシチリア州が買い取りました。

現在内部見学も可能です。行き止まり?と思うと石の扉が動くなど遊び心のあるお屋敷です。外からはわかりませんが、プールもある豪華なつくりで、1900年代初頭ベルエポックの華やかな社交生活が偲ばれます。